「セッション」

いよいよ待ちに待った春ですね!

今年の湖北は大雪で、ラン練習会もまったく開催できずでしたが、こうして不自由なくランニングを楽しめる事に改めて感謝といいますか、世界で平和が脅かされているなか、スポーツと平和を改めて考える今日この頃です。

さて、今回のタイトルは「セッション」とさせて頂きましたが、どうゆうこと?ですよね(笑)

いや実は、「セッション」という言葉が多いんです最近。僕の周りに。

類は友を呼ぶ、ではないのですが、ピンと来た人がだいたい「セッション」言うてます(笑)

そういや川村コーチも以前からセッション・セッション言うてます(笑)

セッションと聞いて、皆さん、何をイメージしますか?

音楽のセッション、トークのセッション、スポーツのセッション、アートのセッションなどなど

どれも参加者みんなで楽しみ、流れるように何かが生まれたり、コトが動いたり、新しいアイデアが出たり、そこには自分と相手とかもなくて、敵や味方とかもなくて、師匠と弟子とか、先生と生徒とか、そんな何かを二分するようなものがなく、お互いが共感共鳴して違う境地にいく、僕の勝手なイメージはそんなところです。

「一本歯下駄を履いた事で生まれるセッション」

一方で「セッション」が上手くいかないときって、僕もまだはっきりわからないのですが、先生と生徒や部下と上司、お店の人とお客さんみたいな(関係がどうのこうのではなく)そう分けたときに、「何かをしてもらえる」という受け手側の依存があると、セッションが上手くいかないのかなと思います。僕も時々失敗します。相手はセッションのつもりだったのに、受け手ばっかりになってしまったり。

世の中を見渡すと、世界は二分された事ばかりで、二分されるのが宇宙の真理なのかもしれません。

主人公と悪役。ダークサイドとライトサイド。陰と陽。生産者と消費者。客と主。演奏者と聴衆者。プレイヤーとサポーター。医者と患者。男と女。大人と子供。西側と東側。

世界の多くは2つの大きなパワーが拮抗する場面が多いのですが、セッションという言葉には、その二分されるモノやコトを一緒にさせる力がある気がしています、なんとなく。

そして、セッションという捉え方をするだけで、色々上手く行くような業界って結構ありそうだなと思ったりします。病院の診察とかもセッションと捉えるだけでずいぶん違うし、学校の授業や大学の講義などもセッションって捉えると教室全体の雰囲気が変わりそう。競技スポーツの試合やバトルとかいう言葉もセッションに変えたら、勝つためだけの単調で退屈な試合とか無くなりそう。

スポーツの試合やゲームなど勝利主義が強い分野で、選手達が勝利を目指しながら味方も相手も一緒にセッションを楽しんだ方が、観ている方も楽しくなるような気がします。

その場のみんながセッションと捉えるだけで、いっきに全員参加型の雰囲気に変身するような気がします。

お笑いの世界でいうと、さんまさんの番組って出演されている全員の方との心地よいセッションが繰り広げられるのが人気の秘訣なのかなとか。

でも、最初に、上下関係を決めたり、出し手と受け手を決めたりする、「先生」とか「~様」とか、「監督」「師匠」とか、そういう言葉が最初からセッションを邪魔している場合もあるのかもしれないと考えると、コーチっていう言葉はとても良いなと思って、川村コーチに電話でコーチングの語源から再度教えてもらいました(笑)。コーチについてはまた次回で。

でも、たとえば、病院の先生に向かって、コーチ!って、さすがに乱暴か(笑)

まあ、コーチの事は次回まで置いといて、患者が、医者にすがるのではなく、医者とセッションしながら自分で自分の身体を治すんだという意識になるだけで、すごくポジティブなエネルギーを感じます。

「親子セッション」

改めて、セッションっていう捉え方、良くないですか?

そして、セッションの中に道具がある。楽器だったり、自転車だったり、ボールだったり。

よーく考えたら、一本歯下駄やRIPPOも僕たちメンバーのセッションから生まれて、身体動作の感覚共有の道具として、今ではすっかりそれぞれのユーザー同士のセッションの中で使われている。あるいは自分の身体のなかで意識と感覚のセッションの繋ぎ役にも。

セッションってすごくないですか?

セッションについてはまた第二章を書くことにしましょう。これもセッションですから。

春からそれぞれ皆さんのセッションを楽しんで頂けると嬉しいです!下駄と一緒にね(笑)